青木正夫 小伝

青木正夫

青木正夫(あおき・まさお)大正13年6月20日、山口県都濃部富田町宮の前に生まれる。生家は裕福な地主。父は29歳か30歳までを小学校教師として過ごした後は職業を持たず、ヴァイオリン、琵琶、テニス、釣りなどを楽しんだ。当時としては子どもが少ない家で、姉と二人きょうだいで育った。「開校以来の秀才」と言われ、小学校の6年間を全甲で通す。徳山中学、旧制広島高校、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。東北大学に2年半在職したのち九州大学に奉職。「青木研究室は学生たちに人気で入るのは順番待ちでした」(鈴木義弘大分大助教授)。昭和63年九州大学を退官。九州大学名誉教授。九州産業大学教授を11年間つとめる。現在は西安建築学院客員教授。

青木正夫

わが愛するタケノコ

自分のアルバムを見ると、生まれたときから小学校5年生まで私は太った大きな子どもだった。 3月になると近所の子どもたちを引き連れて山を裸足で走り、地上に芽を出したばかりのタケノコを足の裏で察知して掘り出した。その柔らかいタケノコの美味さは表現しがたいほどのものである。季節の移ろいとともにいろんな種類のタケノコが次々出てきて家族がみんな飽きてしまった後も、私は一人で苑でたり焼いたりして食べつづけた。

小学校6年生のとき、3月からずっとタケノコを食べつづけていた私は5月の終わりか6月のはじめに大量の吐血をした。吐血は何回もつづき、生命が危ういということで父から繰り返し輸血をしてもらった。命はとりとめたものの、その年の6月は1か月間学校を休んで病床に伏した。
以来、私はまったく体質が変わってしまったようで、現在に至るまで一度も太らず痩躯である。

青木正夫

資金稼ぎ

海辺のまちだから、海にまつわる記憶が多い。夏などは毎日海へ行った。泳ぎも釣りも幼いときから覚え、小学校のときには父が魚釣り用に持っていた伝馬船を自分で漕いで魚釣りに行くほどであった。
小学校3年生くらいの頃からそれまで何もなかった海岸線に工場群が立ち並びはじめた。大勢の労働者たちやその家族が移り住んできたが、そのなかには朝鮮半島からきた人たちもかなりいた。私のクラスに入ってきた春田と春山は大きな男たちだったが、それもそのはず朝鮮で義務教育を終えていなかっただけで、二人ともすでに19歳と20歳になっていた。年齢からして彼らがタバコを吸うのはかまわないわけだったが、朝鮮のキセルの大きな雁首に刻みタバコを詰めて吸う彼らの様子がかっこよく見えて私たちのクラスの全員がタバコを吸いはじめた。冬などは木造校舎を支えているコンクリートの犬走りに座って、日だまりにたむろし、キセルの回しのみをした。

金を持たない小学生がタバコを吸うのだから、知恵をしぼってタバコ銭稼ぎをしなければならない。「オレたちはどうやってタバコ銭を稼ぐか」というテーマを掲げ、今でいうクラス討論、クラ討を行なった。 小学校のすぐ上に、近在では割合大きな山崎八幡というお宮があり、その春祭りが毎年4月の10日11日に開かれる。お祭りには屋台がたくさん出て参拝客も多い。私たちの狙い目は夜市で賑わった祭りの翌朝だった。同級生は夜が白々と明けてくる早朝に全員集合し、参道の土の道の上を手で撫でて道に落ちている金を拾った。たまには五十銭を拾うこともあり、それは一と月分のクラス全員のタバコ銭になった。秋の大祭は9月10日11日である。同じように賽銭を拾って、しばらくは裕福に過ごした。しかし、9月の秋祭りから次の年の春祭りまでの7か月は長すぎて資金不足をきたした。そこでまたクラ討である。

当時はメジロが高く売れた。小学校のすぐ上が山崎八幡の山だったから、そこにメジロ捕りのモチを仕掛けた。モチは仕掛けるだけではダメで、ときどき見回りに行かないとせっかくかかったメジロがカー杯羽根をバタバタさせて逃げてしまう。そこで私たちは担任のH先生のアタマの悪さを利用することにした。二人ほどが手を上げ「教科書を忘れました」と言うとH先生は必ず怒って「取りに帰れ!」と命じる。そこで裏山へ走って仕掛けにかかっているメジロをカゴに入れ、あらかじめ隠してあった教科書を抱えて何食わぬ顔で教室へ帰った。こんなことを何回繰り返しても気づかないのだからH先生は生徒よりはるかに純情な人たった。メジロは町の店に持って行くと高い値段で買ってくれて貴重な資金源となった。

資金源といえば蜂蜜も高く売れた。蜜蜂の巣のありかを知る方法がある。砂糖水を容器に入れ、小さくちぎった綿を浮かべておく。砂糖水を飲みにきた蜜蜂の尻尾に綿がくっつく。黒い色をした蜜蜂を私たちは土蜂と呼んでいたが、尻尾に綿をつけた土蜂を見つけると、野越え山越えどこまでも追っかけて行った。やがて土峰はどこかの木に止まるのだが、めざす蜂の巣はその木のすぐ下ではない。少し離れた周辺にあるのだ。ときには蜂に刺されたりしながら私たちは蜂蜜を獲得した。
ウサギも捕った。ウサギは前足が小さく後ろ足が大きいから、斜面を上がるのはとても速い。しかし斜面の上から追うとつんのめってすぐ捕まった。これは肉屋へ持って行った。ウサギより簡単なのはタヌキだ。穴を見つけて燻せばすぐに捕れた。しかしタヌキは肉屋に持って行っても値段が安かった。

青木正夫

旧制広島高等学校

旧制徳山中学校は実に不愉快な学校だった。#1滝川事件の影響が地方にも及んで、リベラリストの先生が首を切られミリタリズムが横行した。タバコを吸っているのが見つかると即日退校だった。私は3回見つかったが成績が良かったので退校にはならなかった。
広島高等学校は天国だった。素晴らしい自由があった。

その象徴とも言える一枚の写真がある。クラスアルバムは私がアートディレクターをして写真屋に撮らせたのだが、その巻頭を飾る写真は自分がモデルになった。この一枚の写真のイメージを最初私は次のように描いた。「弊衣の高校生が高下駄を履いて渚を歩いて行く。高下駄の歯の跡が砂に刻まれる。逆光。麦藁帽子の紫のリボン、腰のタオルが風にたなびいている」と。ところが、撮影はしてみたものの逆光がハレーションを起こしたりしてなかなか良い結果が出なかった。昭和18年9月の撮影時にはフィルムも欠乏していたからそれ以上試みることができず、妥協してプールサイドで撮ったのがこの一枚である。近年、この写真は全国旧制高等学校の寮歌集の表紙に使われたり、CDジャケットに使われたりして人気が高い。高等学校の生徒の弊衣破帽は代々先輩から受け継ぐもので、モデルになった私が履いている破れたズボンは私で三代目だった。

昭和19年、文科の学生は4月くらいに繰り上げ卒業して学徒動員で戦争に駆り出された。理科の私たちは遅れて9月に繰り上げ卒業をし、10月1日東京帝国大学工学部建築学科へ入学した。あと1年遅れていたら私も原爆に遭っていたはずだ。

#1滝川事件 1933年、文部省は京大法学部滝川幸辰教授の思想を共産主義的として辞職を要求。京大法学部教授会は大学の自治と研究を守るため闘ったが敗北。7教授が辞職した。

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