青木正夫

空腹だが向学心に燃えていた

戦争中は学生を勤労奉仕と称して働かせた。私はこれが嫌でよく逃れたと自分でも感心するくらい徹底的にサボった。
高等学校の時は7月から9月まで日本製鋼に動員されたが、私は動員からはずされた。そのときの私のサボり方は、徹夜でトランプをやって遊び、翌朝醤油を飲んで全速力で走ったあと血沈検査を受けた。当時はひたすら肺結核を恐れていたので健康診断は血沈検査だけだった。非常に高くなっている私の血沈値を見て校医の女医さんが「肺浸潤」という診断を下してくれたので、私は自宅へ帰って静養してよいことになった。夏は自宅で本を読んで過ごした。

大学のときは群馬県の山村に田植えに行く動員があった。ばかばかしいからストライキを起こそうとしたが、誰ひとり同調者がおらず、自分一人で故郷に帰ってこのときも熱心に本を読んだ。このことについては別に何も言われなかった。
戦争中はどこにいても命の危険にさらされていたし、ことに東京は空襲も酷く、乗っていた電車がグラマン2機に挟まれて機銃掃射され目の前の人が即死した。こういう体験が日常的にある状態だった。

輸送が途切れているため東京の食糧事情は極端な欠乏状態で、私たち学生も不忍池あたりに野草を採りに行き塩で炊いて飢えをしのいだ。スイバなどは最も貴重な食べ物だった。15人くらいいた玄人下宿のおばちゃんは人柄の良い人で、大切に持っていた文学全集を売って芋に替え私たちに食べさせてくれたりしたが、それでも朝「すみませんけど今日は食べるものが何もないんです」と謝りにくる日がよくあった。そんな日はエネルギーを使わないように水を飲んで寝て過ごした。
戦争中も昭和20年8月の敗戦後もこういう酷い条件がつづいたが、学生たちは皆学問、研究をやるのだという向学の精神に燃えていた。「すべては無から始まる」という敗戦後の時流に乗って、方法論から探り始めたから、私たち学生は毎日空腹を抱えて一生懸命、考えに考えていた。

青木正夫

文部省へ入らず大学の先生になる

大学での私の研究は主に小中学校の建築であり、在学中に注目すべき論文をいくつか書いていた。文部省の施設部長などがそれを見て話し合ったらしく、当時文部省で一番はなやかだった施設部の指導課へ私を入れようとした。ところが文部省に入っている先輩連中がしきりに「止めろ止めろ」とさかんに牽制してきた。昔の官僚の世界はどこもそうだったが、文部省の施設部は五高出身東大建築学科卒業の人間で占められていた。青木はできるから一、二年先輩を追い越して先に課長になるのではないかという課長亡者たちの危惧であった。最後に五高出身で東大建築学科の同級生である野村が説得にきたとき、私は野村に悪いからという気持ちで文部省行きをやめた。文部省へ断りに行くのを#2吉武助教授にお願いしたが、助教授と私が文部省を訪れたのは4月1日発令の前目、3月31日午後3時頃だった。施設部長は私を入れるため指導課で3人ほど人を動かした後だと言い、私も助教授もただ謝るのみ。吉武助教授からは後々、あのときは一生で一番冷や汗をかいたと言われた。

この事件で私の履歴書にしばらくブランクができることになる。学校の先生の仕事はいくらもあった。東北大学がこないかと言ってきたので、では行きましょうと答えた。ところがこれがまた傑作なことになった。講師という約束だったのに他の学科との兼ね合いがあるとかで、8月1日付けで辞令がきたときは助手だったのだ。私は講師という約束だったのだから助手なら行かないと言ってそのまま東大に残った。

次の年の4月に講師の辞令がきたから東北大学に赴任した。ところが、お前は生意気で贅沢な奴だとみんなから言われた。理由を尋ねると、大学にこないで給料だけ貰っていただろうという。しかし私は給料など貰っていない。調べて見ると、私の給料を建築学科の先生たちがみんなで使っていたらしいことが判明した。私はKという主任教授のところへ「オレの給料はどうしたんだ」と怒鳴り込んだ。教授は文字通り真っ青になった。次の教員会議のときは先生連中は全員平謝り。私は若造ながら最初から威張っていた。行かない方も行かない方だが、こない人間の給料を使い込む方も使い込む方だ。今考えれば、昔はやることがめちゃくちゃだった。こうして東北大学で2年半教鞭をとった。

そのうち九大に建築学科が新設されて、吉武研究室から人を一人採りたいということになり私に話がきた。私はふるさとに近い九大には徳山中学時代の旧悪が暴露されそうで帰りたくなかったのだが、資格を持っているのはお前しかいないからお前行けと教授に言われて仕方なく奉職した。新設大学があちこちにできているから2、3年いてどこかへ変わろうという軽い気持ちだったが、昭和63年に退官するまで九大で仕事をした。助教授時代にユネスコの仕事でヒューミッド(熱帯)の小学校の建築指導に行かないかという誘いが文部省からきて気持ちを動かされたのだが、危険だからと周囲が大反対するのでやめた。 民家の研究では世界の僻地をあちこち訪れている。助教授時代に南インドの農村へ入ったのをはじめ、教授になってからは中国山西省を3000キロ走り回るハードな調査旅行などをした。

#2吉武泰水(よしたけ・やすみ)建築学者、東大名誉教授。父君は大分県国東半島の出身で国会議事堂を設計した吉武東里。

青木正夫

生家の間取り

日本建築学会大会学術講演で発表された青木正夫教授の生家の間取り。伝統的日本住宅は大きく「武家屋敬・農家」と「町屋」との二つの類型に分けられている。ところが、きわめて稀に、その二つの類型を融合した平面構成の住宅がある。
地方の農村の中心集落で、商業的色彩が強い地区に立地している中・小地主階層の住宅だ。 青木正夫教授は自らの生家の間取りなど、4例をひいて発表した。(2002年)

党家村一中国北方の伝統的農村集落

党家村 党家村

青木正夫教授が行った数々の調査の中で、最も大がかりなものは日中合同の『党家村調査』であった。映西省建築学会、西安冶金建築学院、韓城市建設局のメンバーを加えて総勢50名に及ぶ大調査団が第1次、第2次と2度にわたって調査を行った。調査結果は『党家村 - 中国北方の伝統的農村集落』(B5判153頁・出版・世界図書出版公司北京分公司)にまとめられている。
党家村は西安より延々250kmをバスにゆられていく奥地にある。日中合同調査によって、それまで中国の建築学で漢民族の伝統的住居形式の定説とされていた間取りを覆す新しい発見がなされた。